寺史

佛々祖々ぶつぶつそそ先師せんしにならい、正しい仏法を護り伝える。

年表

天文23年(1554) 京都近衛このえ家の荘園があった大坂おおさか豊津とよつにおいて、臨済宗りんざいしゅう大徳寺派だいとくじはの寺院として開創かいそうされる。

慶長2年(1597) 現在の地である東寺町ひがしてらまちうつされる。その際、玉龍山ぎょくりゅうざん福昌寺ふくしょうじ廿一にじゅういち世の弟子、東屋とうおく清春せいしゅん大和尚を開山かいさんとして曹洞宗そうとうしゅうの寺院となる。福昌寺ふくしょうじが薩摩藩主島津氏の菩提寺ぼだいじであったことから、当寺は島津氏が大坂おおさか参内さんだいする際の菩提寺ぼだいじであった。

昭和20年(1945) 空襲によって伽藍がらんが全焼する。また、戦後の道路拡張により境内地けいだいちが縮小する。

昭和45年(1970) 先代住職・重興じゅうこう素堂そどう哲禅てつぜん大和尚の「二度と焼失させまい」という決意から、当時においてはめずらしい鉄筋コンクリート造の本堂が再建される。

平成6年(1994) 大本山永平寺七十八世貫首かんしゅ・宮崎奕保えきほ禅師によって、大本山永平寺の御直末おじきまつ寺院に配せられる。

平成18年(2006) 大阪・栗東寺りっとうじ近衛このえ信尹のぶただ公四百回忌記念事業として、奈良別院・諦崇寺たいそうじ開創かいそうされる。「諦崇寺たいそうじ」の寺号じごうは、福山諦法たいほう禅師から頂戴したもの。

資料

石川屋和助板『改正攝津大坂圖』(1842)

林吉永版『新版大坂之圖』(天和年間、1681-1683)
下図は享保年間(1716-1735)に改刻したもの。

近松門左衛門著『曽根崎心中』(1703)
 實にや安樂世界より、今此娑婆に示現して、我等が爲の觀世音、仰ぐも高し高き屋に、登りて民の賑ひを、契りおきてし難波津や、三ツづつ十ウと三ツの里、札所々々の靈地靈佛、廻れば罪も夏の雲、熱くろしとて駕籠をはや、をりはの乞目三六の、十八九なる顏世花、今咲出しの初花に、傘は被ずとも召さずとも、照日の神も男神、除けて日負はよもあらじ。頼みありける巡禮道、西國三十三所にも向ふと聞ぞ有難き。一番に天滿の大融寺。(~中略~)さて善道寺栗東寺。天滿の札所殘りなく、其方にめぐる夕立の、雲の羽衣蝉の羽の、薄き手拭暑き日に、貫く汗の玉造。(~中略~)佛神水波のしるしとて、甍竝べし新御靈に、拜みおさまるさしもぐさ。草のはす花世にまじり、三十三に御身をかえ、色で導き情で教へ、戀を菩提の橋となし、渡して救ふ觀世音。(~後略~)

梅原忠治郎著『大阪三十三所観音巡り』(1941)
第九番 寶樹山栗東寺 (北區東寺町)
 開祖東屋清春大和尚と號す。本尊釈迦を安置せり。禅宗曹洞派薩摩國鹿児島福昌寺末院なり。
 觀音堂 本尊十一面觀世音は、恵心僧都彫刻の靈像なり。

著名人のお墓

葛 子琴(1739-1784)
江戸時代中期の漢詩人・篆刻家。天賦の才を持った詩人と評された。おくりなは檜園詩老。

鳥居 忠威(1809-1826)
江戸時代の大名で、下野壬生藩(栃木県)の第5代藩主。戒名は寛量院殿仁応了義大居士。墓碑は戦前あったが現存していない。

池上 雪枝(1826-1891)
日本ではじめての感化院(児童自立支援施設)である『修徳院』を開いた。日本画家・村上華岳の祖母。